幸運の導き手

 浮島探査を目的とした飛行船の造船は必要に迫られた形で始まったが、二艘目、三艘目を造船する際に船員ならびに技術者を専属的に配属させるため鯨野自治区管轄の公社が作られた。この公社は後に飛行船運用に関する技能を蓄え、次代へ継承する場としてその役割を果たすようになる。だが、当初全てが手探りの状態だったため、公社としての体裁が整ったのは発足から裕に十年あまりが過ぎてからのことだった。
 丁度その頃、鯨野自治区は初めて他国出身者の移住を認めた。それは浮島の植物と同じ色合いのインクが欲しいという一住人の願いが発端だったが、空の上の生活にある程度の余裕が出てきた証でもあった。
 これをきっかけに幾人かの学者や作家らも鯨野へ移り住むことを認められた。食糧事情もあり受け入れられる人数には限りがあったが、彼等がもたらした知識や技能は数多く、おおむね歓迎された。
 だが、煙たがられた移住者も中にはいた。背の高い痩せた画家の青年もその一人で、彼は定められた仕事もこなさず、日がな一日空を泳ぐ水生生物のスケッチをしていた。
 その日もスケッチブックを片手に外へ出た青年は、郊外にある池の畔で画材を拡げていた。悠々と空を舞う番のマンタを眺めながら、今日はあの二体を描こうと筆を手に取る。一心に線を重ねて形を取り、色を置こうとしたとき画面が突然暗くなった。
 反射的に顔を上げると、まだ頬の丸みに幼さの残る少女が興味深げに自分の手元を覗き込んでいた。彼女は青年の視線に気付くと無邪気な笑みを浮かべ、おもむろに隣へ腰掛けた。そして彼と同じように空を見上げて「鯨野ではマンタは幸運の導き手って言われているのよ」とぽつりと呟いた。
 青年は何だか居心地悪く感じつつも絵を描くことを再開した。少女はそんな彼には構わず、独り言のように続けた。
 かつて遭難した飛行船が二体のマンタに助けられたこと。もしあなたに迷いがあるならあのマンタ達が導いてくれるはずよ、と。
 青年はハッとして少女の方を振り向いたが、彼女はそれ以降は口を閉ざし、空があかね色に染まるまで彼の隣でマンタ達を眺めていた。
 別れ際、少女は青年に一枚の紙を渡した。それは飛行船公社のエンブレムを公募する旨が書かれたチラシだった。驚く青年に少女は「多分これはあなたの仕事だと思うの」と言って悪戯っぽく微笑んでみせたのだった。


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