鯨の瞳

 鯨が空の旅を始める前、鯨野雑貨店は街外れにある小さな食料品店だった。店主は旅人が街を出るときに携える携帯食料を販売するかたわら、街を訪れる旅人から珍しい品物を買い取っていた。それは外国のカフェのチケットだったり、旅人が住む街の絵はがきだったり、名も知れぬ職人の細工物だったりした。彼はそれら様々な品物を眺めては外の世界はどんな風だろうかと憧れを抱きながら日々を過ごしていた。
 鯨が地上から飛び立つと店主は生来の冒険心が押さえ切れなくなった。空に浮かぶ浮島で見るものは全てが目新しく、足を踏み入れれば常に新しい発見がある。食材探しの探索班に組み込まれたことは不服ではあったが、それが生業だと割り切れば浮島探索の日々は非常に充実したものだった。
 瞬く間に三年が過ぎた。再び鯨が地上に降りるようになると、店主は自分の仕事に違和感を覚え始めた。浮島での探査が常に危険と隣り合わせであったことを考えると、この三年間、生き延びることができたのは幸運だった。だが同時に、彼はこれほど心浮き立つ経験をしたことがなかった。知らない土地へ行き、知らない場所を旅する。それこそ彼が求めてきた人生そのものだった。けれど彼は慣れ親しんだ生き方を手放すことを恐れた。煮え切らぬ思いを抱えたままさらに三年が過ぎた。
 ある時、店主は荷運び要員として再び浮島探査隊に組み込まれた。食材探索は食糧問題の解消に伴って休止されていたため、彼が浮島探索に参加するのは実に二年ぶりのことだった。既に店を休業し、保存食の加工、生産を手伝っていた彼は喜び勇んで準備を整えた。出発を控え、飛行船に待機する学者や鉱山夫の列に並んだ時も顔が緩むのをこらえられなかった。そんな彼に一人の少女が声をかけた。何故あなたはそんなにも苦しそうなの? と。彼は突然の問いかけに一瞬たじろぎ、相手の顔を見つめた。機械油に汚れた顔がじっと自分を見返してくる。彼女は飛行船技師のようだった。
 店主はどう答えたら良いのか答えに窮した。浮き足だった気持ちは冷や水をかけられたように一気に沈んだ。この探査の間は確かに楽しいだろう。けれど、それが終わればまたあの何もない日常が戻ってくるのだ。自分は学者でも鉱山夫でもない。一時的に荷運び要員に加えられただけなのだから。少女は口をつぐんだ男に申し訳なさそうに頭を下げると、足早にその場を立ち去った。
 浮島の探査が始まっても男の心は沈んだままだった。あの少女の言葉を思い出しては胸が軋む。学者や鉱山夫達が採取したものを運びながら彼は自らの宝物のことを思った。旅人達の自慢げな顔が思い出される。あんな物、何だって金を払ってまで買ってやったんだろう! 彼は知らぬ間に唇を噛みしめていた。悔しさで胸がはち切れそうだった。だが、そのせいで注意が散漫となった。ハタと気がついた時には前にも後ろにも人の姿は見えなくなっていた。
 店主は焦って来た道を戻ろうとした。しかし、歩いてきたのは深い藪の中だった。藪漕ぎの形跡は残っていたが、ある程度戻ると途端に方向がよくわからなくなった。声の出る限りに叫び声をあげようとし、思いとどまる。近くにどんな生き物が潜んでいるかわからない。うかつな行動を取れば命が危うい。
 息を潜め辺りの様子をうかがう。どこかで鳥が鳴く声が聞こえる。風が吹き渡り、木の葉を打つ音。水が流れ下る音。小動物のものらしい、草間を駆ける足音。頭上の木々からは木漏れ日が金色の葉のように舞い降りてくる。その美しさに胸打たれ、どれくらい立ち尽くしていただろう。いつの間にか強い潮の香りが鼻孔を刺激した。こんなところで海の存在を感じることになるとは思いもよらず、店主はその匂いに惹きつけられた。匂いの元を探し、頭を巡らせる。彼は目印がわりに手ぬぐいを近くの木に結びつけると、より強い匂いが流れてくる方向へ歩き始めた。
 二刻も歩いただろうか。暗い森に慣れていたせいで急に開いた視界に彼の目は眩んだ。そこは浮島の先端だった。そして眩しさから解放された目が最初に捕らえたのは黒々と艶めく巨大な目だった。彼は度肝を抜かれてその場に腰をついた。
 その目は男の様子を静かに見つめていた。店主はそれが鯨の目であることを理解すると恐る恐るそれに近づいた。鯨の瞳はひどく澄んでいて、彼はその眼を眺めているうちに胸の内にあったありとあらゆる鬱積が消え失せるのを感じた。自分とは全く異なる世界を生きるこの巨大な生き物に畏敬の念が湧き上がる。と同時に、今まで見ないようにしてきた未知への探求心が堪えられぬほど膨れあがるのを感じた。
 そうだ。これが己の道なのだ。彼は否定しきれぬ思いに声を上げて笑った。笑っているうちに涙が頬を濡らした。堰を切ったかのように涙があふれ、それまでの鬱屈とした迷いを流し去った。そんな彼の姿を、鯨はただ静かに、静かに見つめていた。


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