地上への帰還

 鯨が浮島を転々としながら空を旅して三年間が経った頃、街では生活の基板が整いつつあった。浮島から採取した植物を育て、捕獲した小動物を卵や乳を得る家畜として飼い慣らし、開墾が可能な土地には環境に適合することができた穀物を植えた。鯨が地上を飛び立つ際に崩れた建物は解体され、かわりに粉ひき用の風車が建てられた。
 鯨が浮島に滞在する期間がおおよそ三日から七日間であることがわかると、その滞在期間を無駄にせぬよう小型の飛行船が開発された。それは当初、多人数を運べるほど高い能力はなかった。だが、移動速度が上がったことで鉱物採取が可能となり、飛翔鉱の発見へとつながった。
 飛翔鉱はその名の通り非常に軽く、入れ物に入れておかなければ勝手に浮遊してしまう鉱物だ。それをほんの少し燃料として使うだけで飛行船はより重いものを運べるようになったため、浮島の調査は飛躍的に進んだ。空での暮らしは安定期に入り、誰もがその環境に慣れつつあった。
 ところがある日、人々は空の色がとても淡くなっていることに気がついた。高台は異変に気がついた人々でごった返し、不安げなざわめきが広がっていた。
 誰かが「鯨が落ちる!」と叫んだ。どこからともなく悲鳴が上がる。気がつけば遙か下方にあったはずの雲原が街を覆っていた。三年前の出来事が皆の脳裏をよぎる。鯨が降下しているのだ。
 一番安全だと思われる街の中央部へ集まるよう、すぐさま全世帯に招集がかけられた。人々は取るものも取りあえず、三年前のあの日のように身を寄せ合い、互いが互いをかばうようにして衝撃に備えた。
 だが落下の恐怖に怯える反面、皆の胸の内には無事に地上へ帰れるのではないかという淡い期待があった。この三年間、鯨は背中から人々をふるい落とすようなことをしなかった。空の旅を続けながらも彼等が生き延びる道を示してくれた。そのため、鯨に対する信頼が街の人々に芽生えていたのだ。
 そして実際、鯨は静かに地上へ降り立った。腹が地面につくとき、それなりの振動はあったもののその衝撃はほんのひとときのことだった。人々は舞い上がった土埃の懐かしい香りを胸一杯に吸い込むと、一斉に歓声を上げ、隣の人に抱きつき、涙を流した。
 この時、街の人々の半数は街から立ち去った。だが、空の世界に魅了された者は鯨と運命をともにすることを選択した。
 いつしか街は鯨野と呼ばれるようになり、鯨が空から地上へ舞い降りるとその場所で市がたつようになった。空の浮島で採取された飛翔鉱のような物珍しい品が並べられるその市は、時を経るごとに地上の人々を魅了するようになり、空への憧れを強くしていったのだった。


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