空に浮かぶ島

 鯨が空の旅を始めたころ、人々が解決しなければならない当面の課題は食糧と水の確保だった。戦の準備のために備蓄があったのは不幸中の幸いだったが、それらが尽きるのは時間の問題だった。
 先の見えぬ不安に大人達は眠れぬ日々を過ごしていた。そのため、最初にそれを発見したのはまだ十になったばかりの少年だった。
 空に何か黒い土塊のようなものがぽつりと浮いている。少年は父親の書斎から望遠鏡を持ち出すと、その塊に焦点を絞り眼を見開いた。
 島だ。空に浮いている島だ。
 それはぐんぐん街へ近づいてくる。少年は震え上がり、「街が島にぶつかる!」と叫びながら通りを駆けていった。
 街の人々の恐怖はいかほどであっただろう。島と街との衝突は避けられぬことのように思えた。島の姿が肉眼でハッキリと確認できるようになり、いよいよこれが最期かと祈りの言葉が人々の口から漏れた頃、街は静かに島に横付けされた。湖面が揺れるほどの衝撃もなく、穏やかに。
 彼等は戦々恐々とした。だが同時に、その出来事に対して柔軟に対応する必要に迫られた。何しろ島は緑で覆われており、耳を澄ませば鳥や動物の鳴き声も聞こえてくる。それは生きるための糧が得られる可能性を示唆していた。
 人々は覚悟を決め、一刻もせぬうちに調査隊を島に派遣した。街がいつまでこの島にとどまるかわからない。戦で奪われていたかも知れない命を、生きるために賭すのに何ら躊躇いはなかった。
 一行は五日ほど島に滞在した。その環境を調査しつつ食料になりそうな果実や小動物を捕獲し、街へ戻った。果たしてその成果は彼等が考える以上のものであった。街の住人たちは空で生きていくための僅かばかりの光明を見いだし、安堵に胸を撫で下ろした。
 そしてこの時、彼等は初めて街の全貌を知ることになる。調査隊が見たものは島の影から見え隠れする黒々とした鯨の巨体だった。とても空に浮かぶとは思えぬそれは、パドルのような大きな分厚いヒレで空を優雅に漕いでいた。
 人々は調査隊の報告に言葉をなくしたが、鯨は何事もなかったかのように一声大きな鳴き声を上げるとやがてその浮島を後にした。


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