鯨野と市

 鯨野では鯨が空の旅を始めてから地上の通貨は程なく廃止された。以降使用されているのは世帯ごとに配布される配給札となっている。通貨が廃止され、配給制度ができたのは当初鯨野で入手できる物品の数量に限度があったためだった。
 だが、食糧事情が改善され、浮島から様々な物資が調達できるようになると、娯楽や嗜好品の需要が伸び始めた。鯨野雑貨店の主人が地上と空を行き来するようになったのも丁度この頃で、彼は住人達の需要にあう品物を少しずつ店に置くようになった。
 しかし取引には地上の通貨が必要となる。彼はある時、鯨野の各組合代表達を駅舎に集めてこう提案した。鯨は時折地上へ降り立つ。その際に浮島などで採取できる品物を、空では入手できない様々な品物と交換する市を開いてはどうか、と。
 この提案に場は騒然となった。特に学者達は浮島特有の鉱物や植物を空から持ち出すことに反対した。飛翔鉱や星の光は使い方によっては戦の道具になる。その場合、鯨野自体が地上の国々からの攻撃対象になる可能性もあるのだから、と。
 議論は学者達の意見に押されがちだったが、では——と続いた店主の言葉に場は静まりかえった。
 この空の孤島には紙の一片すら作る施設がない。何しろ製紙に使用できる大量の水がないのだから。貴方達は浮島で得た知識を様々に書き留めているが、いつか紙もインクも尽きるだろう。また、探査用飛行船の補強や蒸気機関に使われている鋼材はどこから調達するつもりなのか。浮島では鉄のように丈夫で粘りのある鉱石は少量しか採取できない。動力部に致命的な故障が生じた場合、今のように安定した暮らしを維持することは難しくなるだろう。
 不服そうな面々の顔を見返し、彼は続けた。
 我々は鯨野で暮らす以上、むしろ地上から孤立するわけにはいかない。もちろん、鯨野や浮島の環境を守ることは非常に大切なことだ。だが、本当にこの場所を守りたいなら今すぐ鯨から降りるべきなのだ。我々がここを去れば浮島への影響はなくなる。それができないのならば、それは大義をかぶったただの独占欲や知識欲でしかない。
 肩を怒らせ、顔を真っ赤にして立ち去る者が出る中、静かに店主の弁を聞いていたひょろりと背の高い若い学者が口を開いた。
 貴方は賢い。未知のものを放っておくことなど僕らにできるわけがない。でも、同時に貴方は愚かだ。あのような言い方で僕らが納得できるはずがない。
 若い学者の方へ顔を向けると、店主は微笑んでみせた。
 そう。私はお世辞にも頭が良いとは言いがたい。だが、理想だけでは腹が膨れないことを知っている。今日皆にここへ集まってもらったのは、大きく言えばこれからの鯨野を考えるためだ。命をつなぎ、一時の安定を得た。これから我々がこの土地でどう生きていくかを考えて欲しい。
 この会議は後の鯨野の方向性を位置づけることとなった。その決定事項には、戦で使用できるほど大量の飛翔鉱を空から持ち出さないことや、空で得られた知識は積極的に開示し、その有用性を地上の人々と分かち合うことなど、鯨野と地上の国々との軋轢が少なくてすむよう配慮された項目が含められた。
 鯨野住人と地上の人々との交流が活発になっていくのはこの日よりさらに十年後のことである。


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